御言葉にとどまるなら・・・

聖書の御言葉の日記です。

主はわが牧者⑤

詩篇23編5~6節5 aあなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
   bわたしのこうべに油をそそがれる。
   cわたしの杯はあふれます。
6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 5節で、4節までの流れと少し、変わる。ダビデを自分の食卓に招いて、宴会を準備して下さるというのだ。そこは外部から敵がどのような攻撃をしてきても、完全な守りの場となり、平安である。

 ある注解書では、羊飼いー羊の関係から主人(ホスト)ー客の関係と変化していると説明する。このの招きは主イエス・キリストの一方的な神の恵みと恩寵を表わしていると解して良いだろう。

 さて、宴会に出される食事の内容とは一体、どのようなものでしょうか。?食べ飽きることがない、肥えた肉や食材、また、ぶどう酒、それらは満足感を与えてくださるのです。また、宴会には音楽がつきものであり、喜びが絶えず、体も心も躍り出す。そのような余裕を感じさせます。

 続けて、ダビデは5b節のように詩います。「はわたし(ダビデ)のこうべ(頭)に油をそそがれる。」

一般に「油を注ぐ」という行為は最高のもてなしを意味しています。つまり、この油で顔のつやを出すように化粧します。また、場合によっては戦いで受けた傷に油を塗り、癒やしのために使われます。

さらにこの「油」は新約聖書では聖霊を意味しています。私たちはこの聖霊によって、まことの神を知り、 杯があふれるほど、栄えに満ちた喜できるのです。できるのです。

 

ダビデはさらに歌います。自分の一生が神様とともに生き、神の恵みと慈しみの中で、主の家に住み、主を礼拝し、賛美し続けたいと願っています。

 

「主の宮」
  

「主の宮」
エスよ あなたに 飢え渇いて 御前に祈る
十字架の血潮で きよめられ
御座の前に行こう   顔と顔を合あわせ 
あなたに会いたい  まことの聖所で あなたを見上みあげる
主だけを想い 主と愛し合う 主と共に住すむ ここは主の宮

 

主はわが牧者④

詩篇23篇4節

 4  a.たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。 
  b.あなたがわたしと共におられるからです。
  c.あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 

4 a.Yes, though I walk through the [deep, sunless] valley of the shadow of                death,
  b. I will fear or dread no evil, for You are with me;
  c.Your rod [to protect] and Your staff [to guide], they comfort me.
                            (AMP 訳)

4節のAMP訳の試訳  

   a.たとえ死の陰の【深い/暗黒の】谷の中を歩むとも、    
    今の災難や、これから起こりうる災いをも恐れない。    
   b.というのは、あなたが私と共におられるからだ。    
   c.あなたのむちは(私を外敵から)守り、あなたの杖は(私を)導き、
    それらは私の慰め(励まし)となる。

a. たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。  
ダビデ自身、死に直面するようなところを通らされた。それは、先行きが闇で入口も出口も見えず、谷の中を歩ませる苦しみの状況に遭遇しても、彼は恐れないと言う。その理由をb文で彼は説明する。

 

b.あなたがわたしと共におられるからです。
ダビデは苦しみには遭ったとしても自分には恐れがないと言う。それは神様の豊かな臨在を強く感じていたからだ。共にいてくださる神の御手の中に生かされている実感があった。
パウロも書簡で「苦しみに遭ったことは私にとって良かった。それで私は掟を学んだ」と記している。それではどのようなかたちで、神は働きかけてくださると言うのだろうか。そのことを次のc文のようにダビデは詠む。

c.あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
羊は外敵に狙われ、襲われる危険がつき回る。牧者はむちで外敵を追い払う。悪しき者からの守りであり、羊を保護する。良き牧者の姿についてエゼキエル書34章で言及している。

エゼキエル34章12節~】

12  牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 ・・・14  わたしは良き牧場で彼らを養う。15  わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。 
・・・16  わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。 ・・・31  あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる。

 ご自身が牧者として羊の群れ(イスラエルの民)を養うと約束する。これはキリストの姿を預言している。

 

エス様は失われた羊について、マタイの福音書18章とルカの福音書15章で、時の指導者と民衆に語っている。

【マタイの福音書18章11節~】
11  人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。12  あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 13  もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。出てくる
ここに登場する「人の子」はイエス・キリストを指す。

【ルカの福音書15章4節~】 
4  「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 5  そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 
6  家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」

この二つの福音書でみて分るのは、良き牧者なるは失われた羊のために最後の一匹まで捜す。これが神の御国の価値観である。
反対に、失われた一匹の羊を切り捨て、大多数の羊を残すのがこの世の価値観ではなかろうか。いや、むしろ切り捨て続け、養うことはしない。その歯止めがきかない。これは悪い牧者である。悪い牧者はそのような羊を食べることさえある。

 

私は今、二本の杖で歩いているが、この杖は自分の体を支えるためにある。牧者は杖で道からはみ出した羊を支えながら、安全なところへ導く。あまりにも羊が牧者の言うことを聞かないのなら、杖で羊の足をひっかけることさえある。当然、羊は転び、場合によっては、けがをするかもしれない。危険な谷の崖から落ちて死ぬよりはましだ。は羊を失うことを悲しまれる。

このけがとは、私たちの人生の試練のことである。試練は痛みを伴う。嫌なことだ。しかし、は必ず、けがの傷をし、いやし、脱出の道を用意している。私たちは気づかないかもしれないが、実は、けがをした羊をが自肩と肩と背中に乗せるように、神は私たちを目の見えないところで運んでくださる。また、はこの試練をとおして私たちを訓練される。は私たちを子として取り扱って下さっているからだ。

 

主はわが牧者③

詩篇23篇3節 3  主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 

ダビデは兵士として、巨大な敵を相手に勇敢に戦い、信仰者としても素晴らしかった。しかし、彼の人生の中で、失敗をしたり、先行きが見えず、不安の日々を過ごし、彼の魂は気落ちし、とても弱くなることもあった。

 

a.主はわたしの魂をいきかえらせ・・・

そのようなダビデの魂をは回復させ、彼の魂に新たな活力が与えられた。ヨブ記33章30節のようにまさに墓のどん底まで落とされたような魂をは引き上げて下さ彼は彼は希望の光を見いだすことができた。

33:30  その魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させられる。

 

b.み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

単に「魂をいきかえらせる」だけではなく、さらには彼を正しい道(新改訳では「義の道」)に導かれる。

それは、のみ名(御名)のために、すなわち、のみ名にふさわしく、彼が歩むためである。そこにの御意志(動機と目的)がある。

 

いのちに至る「正しい道(義の道)」は決して、広い道ではない。「緑の牧場といこいのみぎわ」に向かうには、が招く声に応答し、細い道を通る必要があるのだ。マタイ伝7章13節でキリストは次のように言う。

7:13  狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 
7:14  命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

 

それは私たちにも言えるのだ。牧者の声に従わず、自分勝手に道を歩んでしまえば、いのちを失ってしまうことがある。この牧者の声とは聖書の御言葉にほからない。

 

 

主はわが牧者②

詩篇23篇2節 2  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 

 

繰り返しになりますが、ここでもう一度、ダビデについて再確認します。
ダビデは三千年前に登場する、イスラエルの二代目の王様です。

王様になる前のダビデの少年時代は羊の世話をしながら、牧者(羊飼い)として育ちました。イスラエルの気候は雨が少ない。だから、緑は少なく、水は大変、貴重なものになってくる。また、オオカミのような肉食動物がいつ襲ってくるか分りません。

したがって、羊の群れをそのような動物から守られなければなりませんでした。日中、羊の群れを囲いの門から出して水のほとりやなんとか生えている緑の草まで、導く必要があり、羊の囲いに帰る道中も同じです。一匹、一匹の羊の特徴や性格をよく観察し、見守らなければ羊飼いの仕事は務まりません。これはある意味、神経と体力が必要な仕事だと思います。

この少年時代の羊飼いとしての経験でダビデは羊の特性というものを痛いほど十分に知り尽くしていました。ダビデのそのような少年時代の生活背景から生まれた詩です。

 

2  主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。 

前回、1節について書いたが、主なる神様と私たち人間の関係は、「牧者」と「羊」の関係のようだとダビデは語っています。

 

創世記1章から2章にかけて、神様は人間をに美しい「エデンの園」が置きました。まそこには豊かな水と青々とした草原や木とさまざまな鳥と動物があり、いのちが満ちあふれていました。すべて造られたもの(被造物)がを賛美していたにちがいありません。

 

この「緑の牧場」と「いこいのみぎわ」とは、このエデンの園を暗に示しているように私には思えるのです。

 

残念ながら、創世記3章でアダムとエバに罪が入り、結果的にエデンの園から私たち人間は追い出されました。

 

ある意味、人間がもう一度、エデンの園に向かって歩むことが聖書のテーマになっている。良き牧者はその途上で悪しき環境から、悪しき者から、悪しき働きから私たちを守り、導いてくださる。

 

この牧者とはイエス・キリストです。。私たちはただ、イエス様が示し、招いてくださる道に従うだけです。そのとき、私たちは新しくいのちを得ることができます。エデンの回復は黙示録に出てくる千年王国や新天新地という形にあらわれます。

 

 

 

 

主はわが牧者①

詩篇23篇1節 ダビデの歌 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 

この詩篇23篇の作者はダビデである。ダビデイエス・キリストが生まれる約千年前に登場した、二代目のイスラエルの王である。言い換えると今からおよそ三千年前の人物ということになる。(ちなみにダビデの子孫からイエス・キリストがお生まれになる)

 

少年時代のダビデは羊の世話をしながら、羊飼いとして育った。イスラエルの気候は雨が少ない。だから、緑は少なく、水は大変、貴重なものになってくる。また、オオカミのような肉食動物がいつ襲ってくるか分らない。

 

したがって、羊の群れをそのような動物から守られなければならなかった。日中、羊の群れを囲いの門から出して水のほとりやなんとか生えている緑の草まで、導く必要があり、羊の囲いに帰る道中も同じだ。一匹、一匹の羊の特徴や性格をよく観察し、見守らなければ羊飼いの仕事は務まらない。これはある意味、神経と体力が必要な仕事だろう。

 

この少年時代の羊飼いとしての経験でダビデは羊の特性というものを痛いほど十分に知り尽くしていた。ダビデのそのような少年時代の生活背景から生まれた詩だ。

 

ダビデの歌 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 

 

1節は、ダビデ信仰告白であり、この詩篇23篇全体の要約といっても良い。文語訳聖書では「主は我が牧者なり」である。この牧者は「羊飼い」と同じ意味だ。

 

この節の前半はa.「主はわたしの牧者であって」と後半はb.「わたしには乏しいことがない」に分けられる。

 

a.「主は私の牧者であって」

ダビデへの個人的な絶対なる信頼と賛美を表現している。ダビデは王となる前にはイスラエルの初代王のサウルに忠実に仕えていた。しかし、ダビデの働きぶりによってかえって、サウルから妬まれ、命を狙われ、脅かされたりした。そのうえ、他の異国の国からもおおわれることもあった。そのような危険の身にも遭っていた。そのダビデに主の守りと導きがあった。

 

身にしみて、ダビデは自分自身を「羊」になぞらえられた。が伴ってくださなければ、羊ごとく、荒れ地の中、さまよう人生となる。は、自分を安全な場所、すなわち安息の地のところまで守り、導いて下さる方で「牧者」である。

 

羊は目が悪く、臆病な動物だと言われる。羊の群れが移動しているとき、ある一匹の羊が群れからはずれたら後ろの羊たちも一緒にはずれてしまう。良い「牧者」がいなくてはその羊の群れ全体の足はおぼつかない。

 

「牧者」と「羊」の関係について、ダビデなる神と人間の関係だとも私たちに教えてくれている。創世記3章でエデンの園から追い出され、さまよい歩くことになった。私たち人間は、もう一度、安息の地へとが招いてくださる。預言的にいえば、それは「羊飼い」なるイエス・キリストの招きである。荒れ地のような、いつ敵が襲ってくるか分らない道を主イエスが守り、導いてくださる。

 

の招きの声に聞いて応答し、羊の囲いの門のところへに私たちが向きを変えて入るなら私たちは救われる。イエス様もご自身についてヨハネ福音書10章7~9節で以下のように自己宣言している。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。・・・わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」

 

この「羊の門」とは牧者が担っている囲いの門のことであって、他の門のところでは救いが約束されていない。

 

b.「私は乏しいことがない」

「主は私の羊飼い」であるがゆえに、「私は乏しいことがない」とダビデは言う。それは単に乏しいことがないというのではなく、満ち満ちて余ることがない。もうこれ以上に欲する必要はない。物質的においても、霊的においても、目に見える事柄においても、目に見えない事柄においても豊かに祝福されるている、そのことにダビデは感謝している。

 

この刻印のない者は・・・(黙示録13:17)

この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。
‭‭                     ヨハネの黙示録‬ ‭13:17‬ ‭a 口語訳‬‬)

【メッセージ】

世界中が話題になっている新型コロナですが、新聞、テレビの報道でも今ひとつ、よ

くわかりません。マスク、三密・・・人々の行動をコントロールし、ノーマルな生活を

送らせないという不便を強いられています。ある職場では休日の行動の履歴を申告する

ようにと言われているようです。これは監視社会の始まりをイメージさせます。先日、

この件について相談の電話が妻のところに来ました。

 

17日から新型コロナワクチンが日本でも医療従事者を先行して接種するようになりま

したが、とても喜べる気持ちにならないのが、私の正直な気持ちです。いよいよ時が来

たのかと思いました。

 

これは私たち日本全国民にも及びます。確かに予防接種は任意で強制的ではありませ

ん。しかし、時代の無言の圧力に屈し、本人が自由選択できないという危惧を憂いま

す。医療従事者に限りませんが、そのことで職を失い、仕事ができないとするならば、

それは問題です。そのような事態ににならないようにと願います。

 

この新型コロナワクチンを接種しないとスーパー、映画館、図書館、ジム等の入場でき

ませんとか、パスポートでの海外の移動に制限がでてくるとするならば、それはさらに

深刻な問題になってきます。

 

まさに、これは今日の聖書箇所の状況に似ています。大患難時代に入った人々が、獣

(不法の者・反キリスト)の刻印がなければ、売買ができなくなります。すなわち、世

界統一政府、世界統一経済です。

聖書の価値観は反グローバリぜーション(地球規模化)です。

 

キリスト者は神の恵みにより、信仰により聖霊の証印を押されています。私達の名前が

いのちの書に記され、私達の国籍は天の御国にあります。に感謝。

「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」 (エペソ人への手紙‬ ‭4:30‬ ‭口語訳‬‬)

 

 

 

 

 

「御国ファースト」(マタイの福音書6:33)

 

 6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(口語訳)

 

内容】

詳約聖書では次のように訳されている。

6:33何よりもまず第一に神の御国と神の義[正義をなし、正義であるための神の道]を追求しなさい〈それを目標にし、そのために努力しなさい〉。そうすれば、それに添えてこれらものがみな、与えられるるためである。(詳訳聖書)

 

これはイエス様が弟子たちに説教したもののひとつである。

まず、第一に求めるものは神の国と神の義である。あえて、一言で言えば、御国ファー

ストである。神の御心を知り、神の国を実現するためにあらゆる不義(悪)を取り除く

いである。それは聖霊が働いて、はじめて私たちはキリストの兵士として御言葉の剣

を握って、あらゆる不義(悪)に立ち向かうことができる。

 

ちなみに闇の国では、聖霊はなく、神への愛がない。人々の愛が冷える。そこには神の

義がなく、不法がはびこる。また、真理の御霊がなく、自由がない。お互いの幸福のた

めに執り成しの祈りが権威を権威を自己に求める。霊的に盲目であり、光がない国である。

 

【メッセージ】

先週、7日にアメリカで今回の大統領選挙戦にめぐって、国会議事堂の内外で色々なこ

とがあった(多くのメディアは正しく報道されてなく、印象操作されている感じがす

る)、結果的に国会でトランプに次期大統領の認証を受けることができなかった。

 

今回の選挙戦で郵便投票や当日の投票で何一つ問題がないとは思えなかっ。私なりに

さまざまなリソースから情報を得ながら、判断した結果、YouTubeで情報発信される報

道内容の方が真実ではないかと思うようになった。多くの大手主要メディアは日本にお

いてはその問題について疑問を抱くことはなかった。

 

色々と調べた結果、わかったことはトランプが戦っている敵は相手候補者個人ではな

く、その背後に民主主義、自由社会を破壊する闇の勢力に対してである。その根は深

く、全世界的である。日本社会にもその影響は及ぶ。そういう点で、注目する選挙であ

る。

 

今回の選挙は終わったかのように見えるかもしれない。しかし、まだ、目に見える現状

は厳しいが、トランプは最後まで米国憲法で残されている(許されている)大統領の権

限をもって戦うであろう。米国ファーストのためであり、民主主義を守るために米国憲

法でいくつかの弁(砦)が機能するようになっているそうだ。

 

私達日本人も日本ファーストである。また、クリスチャンならば、世において御国ファ

ーストである。

御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

                    (マタイの福音書6:10)

 

 追記:人々が血を流すのは見たくないのが本当の思いである。そのことがないように

    祈りたい。