御言葉にとどまるなら・・・

聖書の御言葉の日記です。

主はわが牧者④

詩篇23篇4節

 4  a.たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。 
  b.あなたがわたしと共におられるからです。
  c.あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 

4 a.Yes, though I walk through the [deep, sunless] valley of the shadow of                death,
  b. I will fear or dread no evil, for You are with me;
  c.Your rod [to protect] and Your staff [to guide], they comfort me.
                            (AMP 訳)

4節のAMP訳の試訳  

   a.たとえ死の陰の【深い/暗黒の】谷の中を歩むとも、    
    今の災難や、これから起こりうる災いをも恐れない。    
   b.というのは、あなたが私と共におられるからだ。    
   c.あなたのむちは(私を外敵から)守り、あなたの杖は(私を)導き、
    それらは私の慰め(励まし)となる。

a. たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。  
ダビデ自身、死に直面するようなところを通らされた。それは、先行きが闇で入口も出口も見えず、谷の中を歩ませる苦しみの状況に遭遇しても、彼は恐れないと言う。その理由をb文で彼は説明する。

 

b.あなたがわたしと共におられるからです。
ダビデは苦しみには遭ったとしても自分には恐れがないと言う。それは神様の豊かな臨在を強く感じていたからだ。共にいてくださる神の御手の中に生かされている実感があった。
パウロも書簡で「苦しみに遭ったことは私にとって良かった。それで私は掟を学んだ」と記している。それではどのようなかたちで、神は働きかけてくださると言うのだろうか。そのことを次のc文のようにダビデは詠む。

c.あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
羊は外敵に狙われ、襲われる危険がつき回る。牧者はむちで外敵を追い払う。悪しき者からの守りであり、羊を保護する。良き牧者の姿についてエゼキエル書34章で言及している。

エゼキエル34章12節~】

12  牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 ・・・14  わたしは良き牧場で彼らを養う。15  わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。 
・・・16  わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。 ・・・31  あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる。

 ご自身が牧者として羊の群れ(イスラエルの民)を養うと約束する。これはキリストの姿を預言している。

 

エス様は失われた羊について、マタイの福音書18章とルカの福音書15章で、時の指導者と民衆に語っている。

【マタイの福音書18章11節~】
11  人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。12  あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 13  もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。出てくる
ここに登場する「人の子」はイエス・キリストを指す。

【ルカの福音書15章4節~】 
4  「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 5  そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 
6  家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」

この二つの福音書でみて分るのは、良き牧者なるは失われた羊のために最後の一匹まで捜す。これが神の御国の価値観である。
反対に、失われた一匹の羊を切り捨て、大多数の羊を残すのがこの世の価値観ではなかろうか。いや、むしろ切り捨て続け、養うことはしない。その歯止めがきかない。これは悪い牧者である。悪い牧者はそのような羊を食べることさえある。

 

私は今、二本の杖で歩いているが、この杖は自分の体を支えるためにある。牧者は杖で道からはみ出した羊を支えながら、安全なところへ導く。あまりにも羊が牧者の言うことを聞かないのなら、杖で羊の足をひっかけることさえある。当然、羊は転び、場合によっては、けがをするかもしれない。危険な谷の崖から落ちて死ぬよりはましだ。は羊を失うことを悲しまれる。

このけがとは、私たちの人生の試練のことである。試練は痛みを伴う。嫌なことだ。しかし、は必ず、けがの傷をし、いやし、脱出の道を用意している。私たちは気づかないかもしれないが、実は、けがをした羊をが自肩と肩と背中に乗せるように、神は私たちを目の見えないところで運んでくださる。また、はこの試練をとおして私たちを訓練される。は私たちを子として取り扱って下さっているからだ。