御言葉にとどまるなら・・・

聖書の御言葉の日記です。

主はわが牧者①

詩篇23篇1節 ダビデの歌 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 

この詩篇23篇の作者はダビデである。ダビデイエス・キリストが生まれる約千年前に登場した、二代目のイスラエルの王である。言い換えると今からおよそ三千年前の人物ということになる。(ちなみにダビデの子孫からイエス・キリストがお生まれになる)

 

少年時代のダビデは羊の世話をしながら、羊飼いとして育った。イスラエルの気候は雨が少ない。だから、緑は少なく、水は大変、貴重なものになってくる。また、オオカミのような肉食動物がいつ襲ってくるか分らない。

 

したがって、羊の群れをそのような動物から守られなければならなかった。日中、羊の群れを囲いの門から出して水のほとりやなんとか生えている緑の草まで、導く必要があり、羊の囲いに帰る道中も同じだ。一匹、一匹の羊の特徴や性格をよく観察し、見守らなければ羊飼いの仕事は務まらない。これはある意味、神経と体力が必要な仕事だろう。

 

この少年時代の羊飼いとしての経験でダビデは羊の特性というものを痛いほど十分に知り尽くしていた。ダビデのそのような少年時代の生活背景から生まれた詩だ。

 

ダビデの歌 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。 

 

1節は、ダビデ信仰告白であり、この詩篇23篇全体の要約といっても良い。文語訳聖書では「主は我が牧者なり」である。この牧者は「羊飼い」と同じ意味だ。

 

この節の前半はa.「主はわたしの牧者であって」と後半はb.「わたしには乏しいことがない」に分けられる。

 

a.「主は私の牧者であって」

ダビデへの個人的な絶対なる信頼と賛美を表現している。ダビデは王となる前にはイスラエルの初代王のサウルに忠実に仕えていた。しかし、ダビデの働きぶりによってかえって、サウルから妬まれ、命を狙われ、脅かされたりした。そのうえ、他の異国の国からもおおわれることもあった。そのような危険の身にも遭っていた。そのダビデに主の守りと導きがあった。

 

身にしみて、ダビデは自分自身を「羊」になぞらえられた。が伴ってくださなければ、羊ごとく、荒れ地の中、さまよう人生となる。は、自分を安全な場所、すなわち安息の地のところまで守り、導いて下さる方で「牧者」である。

 

羊は目が悪く、臆病な動物だと言われる。羊の群れが移動しているとき、ある一匹の羊が群れからはずれたら後ろの羊たちも一緒にはずれてしまう。良い「牧者」がいなくてはその羊の群れ全体の足はおぼつかない。

 

「牧者」と「羊」の関係について、ダビデなる神と人間の関係だとも私たちに教えてくれている。創世記3章でエデンの園から追い出され、さまよい歩くことになった。私たち人間は、もう一度、安息の地へとが招いてくださる。預言的にいえば、それは「羊飼い」なるイエス・キリストの招きである。荒れ地のような、いつ敵が襲ってくるか分らない道を主イエスが守り、導いてくださる。

 

の招きの声に聞いて応答し、羊の囲いの門のところへに私たちが向きを変えて入るなら私たちは救われる。イエス様もご自身についてヨハネ福音書10章7~9節で以下のように自己宣言している。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。・・・わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」

 

この「羊の門」とは牧者が担っている囲いの門のことであって、他の門のところでは救いが約束されていない。

 

b.「私は乏しいことがない」

「主は私の羊飼い」であるがゆえに、「私は乏しいことがない」とダビデは言う。それは単に乏しいことがないというのではなく、満ち満ちて余ることがない。もうこれ以上に欲する必要はない。物質的においても、霊的においても、目に見える事柄においても、目に見えない事柄においても豊かに祝福されるている、そのことにダビデは感謝している。