御言葉にとどまるなら・・・

聖書の御言葉の日記です。

創世記14章1~16節「アブラム、ロトを救い出す」

◆創世記13章14~18節◆   14:1シナルの王アムラペル、エラサルの王アリオク、エラム王ケダラオメルおよびゴイムの王テダルの世(時代)に、2これらの王はソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シナブ、ゼボイムの王セメベル、およびベラすなわちゾアルの王と戦った。

3これら五人の王はみな同盟してシデムの谷、すなわち塩の海に向かって行った。4すなわち彼らは十二年の間ケダラオメルに仕えたが、十三年目にそむいたので、5十四年目にケダラオメル(エラムの王)は彼と連合した王(シナル、エラサル、ゴイムの王)たちと共にきて、アシタロテ・カルナイムでレパイムびとを、ハムでズジびとを、シャベ・キリアタイムでエミびとを撃ち、

6セイルの山地でホリびとを撃って、荒野のほとりにあるエル・パランに及んだ。7彼らは引き返してエン・ミシパテすなわちカデシへ行って、アマレクびとの国をことごとく撃ち、またハザゾン・タマルに住むアモリびとをも撃った。

8そこでソドムの王ゴモラの王アデマのゼボイムの王およびベラすなわちゾアルの王は出てシデムの谷で彼らに向かい、戦いの陣をしいた。9すなわちエラムの王ケダラオメル、ゴイムの王テダル、シナルの王アムラペル、エラサルの王オクの四人の王に対する五人の王であった。

10シデムの谷にはアスファルトの穴が多かったので、ソドムの王ゴモラの王は逃げてそこに落ちたが、残りの者は山にのがれた。11そこで彼らはソドムとゴモラの財産と食料とをことごとく奪って去り、12またソドムに住んでいたアブラムの弟の子ロトとその財産を奪って去った。

 13    時に、ひとりの人がのがれてきて、ヘブルびとアブラムに告げた。この時アブラムはエシコルの兄弟、またアネルの兄弟であるアモリびとマムレのテレビンの木のかたわらに住んでいた。彼らはアブラムと同盟していた。

14アブラムは身内の者が捕虜になったのを聞き、訓練した家の子三百十八人を引き連れてダンまで追って行き、15そのしもべたちを分けて、夜かれらを攻め、これを撃ってダマスコの北、ホバまで彼らを追った16そして彼はすべての財産を取り返し、また身内の者ロトとその財産および女たちと民とを取り返した。

 ここでアブラムの甥のロトが戦いに巻き込まれたことが書かれています。 最終的にはアブラムによって助け出されます。下表のように「五人の王の連合軍」と「四人の王の連合軍」との間の戦いです。

   五人の王の同盟軍    四人の王の連合軍

  ソドム、ゴモラ、アデマ、

   ゼボイム、ゾアル

 シナル、エラム、オメル、ゴイム

 戦いの様子がまるで、戦国時代のようです。しばらく、五人の王ちはエラムの王に十二年間にわたり仕えていましたが、十三年目に謀反を起こします。ところが、エラムの王四人の王で連合を組んで、ソドムゴモラの王の軍を追い込みます。そしてさらにこの四人の王の連合軍ソドムゴモラにあった財産と食料 を奪取っていきます。                      

 ソドムにはロトが住んでいました。彼は捕虜となり財産、食料も失います。その状況を知ったアブラムは自分のもとで軍事訓練をした者を連れ、敵に夜襲で戦いを臨みます。その結果、財産は取り戻せることができ、ロトや彼に属する者たちも無事に助けられました。

 おそらく、ロトは自分が選んだ場所は肥沃に富んだ穏やかなソドムだっただけに、まさかこのような展開になるとは想像していなかったでしょう。戦いに巻き込まれ、ロトはピンチの状態になりました。そのようなロトにアブラムは助けの手を出しました。アブラムの軍は小さなものだったに違いにありませんが、そこに神の力が働いていました。                                             

 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。  

 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。(詩篇121篇1~2節:新改訳第三版)

 

創世記13章14~18節「アブラム、主に祭壇を築く」

◆創世記13章14~18節◆  13:14ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。15すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。16わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。17あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。18アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

 アブラムがロトと分かれてからのものがたりです。主はアブラムにここでは二つの約束はを語られます。
 ①アブラムが目の前に見える東西南北の土地はアブラムと彼の子孫のもとなること。
 ②アブラムから多くの子孫が生れること。
 彼は主からの約束を信じて、そのしるしとして主に祭壇を築きました。このアブラハムの礼拝の姿はイエス様が奨められたものと似ています。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。(マタイによる福音書6章6節)

 

 

 

創世記13章8~13節「アブラムとロトの分かれ」

◆創世記13章8~3節◆  13:8アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。 9全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。 10ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。 11そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。 12アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。 13ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。

 アブラムはとロトの間で起こった両者牧者同士の争いが身内の内輪揉めに発展しないようにロトに提案をしました。それはロトに土地を選ばせることでした。アブラムはロトに土地の選択権を先に譲り、親族の長としての役割を果たしました。その後、アブラムとロトはロトは分かれて生活することになります。

 ロトはいかにも潤って肥沃のある土地の方をを選択しました。ロトは目先の損得で選んだようです。そこは人の目では(肉的には)魅力的でしたが、霊的には問題のある土地でした。ある意味、これはエデンの園エバが善悪の知識の木を選んでしまったのストリーと重なるように感じさせます。
 それに対して、見た目では良い土地ではなくてもアブラムは信仰を働かせて選ぶことができました。彼は天地万物を造られた創造主、どこまでも共にいてくださる神様を信じていたからです。カナンの地は約束の地でした。

 私達も人生の分岐点で肉体的な感覚(目と耳)だけで選択してしまう傾向があるのではないでしょうか。霊的な目と耳で思考するマインドも必要です。 

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
                                                                                                         (コリント人への手紙5章7節)                
 

創世記13章1~7節「アブラムと甥のロトの間で」

創世記12章10~20節  13:1アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。 2アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。  3彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。 4すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。  5アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。 6その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。7アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。

1アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。  2アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。    
 かって、カナンに激しい飢饉のためにアブラムは親族を連れてエジプトに避難しました。ここで妻サライのことで、エジプトのパロ王との間でアブラムは自分の命が狙われているのではないかとその危険を恐れました。しかし、結果的にアブラムはパロ王にエジプトから追い出される形で事なきをえました。これは神様からの祝福の約束(アブラハム契約)があったからです。

 エジプトを出るとき、パロ王からアブラムに多くの贈り物を持たせました。そのために家畜と金銀などの財産は生まれ故郷のウルから出発した時より増えました。あた、今回の旅は甥のロトも連れています。

 3彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。 4すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。                
 乾燥したネゲブの地から緑の多いベテルに向かいます。昔、アブラムが初めて築いた祭壇の所で礼拝を捧げました。

  5アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。 6その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。                  
 ロトも羊、牛などの家畜や天幕を持ち、裕福になりました。これは神様のアブラハムへの祝福がロトにも流れたことをあらわしています。しかし、アブラムとロトの財産が増えて、住むには土地が
狭くて支障が出てきました。財産は祝福にもなりますが、新たな試練になるのです。

7アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた
 
アブラムの牧者(家畜を世話する人)たちとロとの牧者たちの間で「争い」が出てきました。これでは収拾がつかないどころか、カナン人やペリジ人に対して神の栄光をあらわすことができません。
 エジプトでアブラムは妻サライの件で、パロ王から命が狙われるという危機の恐れがありました。これはアブラムの親族外から来る問題でした。今回はアブラムとロトとの親族間の内輪の
揉め事です。

 すこし、話しがずれるかもしれませんが、「外から来る問題」と内輪の揉め事といった「内側から来る問題」の両者について次のようなことが考えられるのではないでしょうか。「外から来る問題」に対しては共同体全体で一致して立ち向かう方法で解決します。一方、「内側から来る問題」には共同体の中でいかに「和」を保つかと言うことです。それにはお互いに謙譲しあうことです。これができないのは私達の肉の性質が露呈したときです。むさぼりなどの自己中心性でしょう。時にサタンは内輪の揉め事を起こさせて秩序を壊そうとします。その策略の罠にはまらないように私達は気をつけたいとつけたいと思います。

 

 

創世記12章10~20節「アブラムとサライ、エジプトに下る」

◆創世記12章10~20節◆ 10さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである。 11エジプトにはいろうとして、そこに近づいたとき、彼は妻サライに言った、「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。 12それでエジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。 13どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。 14アブラムがエジプトにはいった時エジプトびとはこの女を見て、たいそう美しい人であるとし、 15またパロの高官たちも彼女を見てパロの前でほめたので、女はパロの家に召し入れられた。 16パロは彼女のゆえにアブラムを厚くもてなしたので、アブラムは多くの羊、牛、雌雄のろば、男女の奴隷および、らくだを得た。                                                 
 17ところで主はアブラムの妻サライのゆえに、激しい疫病をパロとその家に下された。 12:18パロはアブラムを召し寄せて言った、「あなたはわたしになんという事をしたのですか。なぜ彼女が妻であるのをわたしに告げなかったのですか。 19あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」。 20パロは彼の事について人々に命じ、彼とその妻およびそのすべての持ち物を送り去らせた。

 カナンの地に激しい飢饉が起こりました。そのために、アブラムとその妻サライはエジプトに下ることになりました。一時的な避難所です。彼らがエジプトに入るとき、アブラムに一種の恐れが生じたのです。彼は妻のサライが美しいので、エジプトの地で自分の命が狙われると思ったのです。アブラムはサライに「君はきれい。エジプト人が心惹かれて私を殺すかもしれない。だから私の妹だと言ってくれ」と頼みます。(13節)

 このようにアブラムは神様からアブラハム契約を持っているのにもかかわらず、憶病になってしまい、尻込みになったのです。(創世記12章2、3、7節 参照参照)   

2わたしはあなた(アブラム)を大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。・・・3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地のすべてのやから(民族)は、あなたによって祝福される」。・・・7「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」(創世記12章2、3、7節)    

 ここでアブラムが単に信仰的に完全に立派だから、神様は彼を選んだのではないことがわかります。また、彼の信仰の失敗は、現在の私達にも同じように持っています。目に見えるものに恐れを抱いたのです。目の前にあるエジプトの巨大さ、言い換えれば、目に見える人生の問題の圧倒さに飲まれてしまったと言って過言ではありません。それどころか神の方法ではなく、自分のやり方で解決しようとしました。

 神様は誠実に約束を守られる方です。結果的にアブラムはエジプトの王から守られ、その場(王宮)から離れることができました

神の賜物を、再び燃えたたせなさい。 というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊(別訳:憶病の霊)ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 (Ⅱテモテ1章6b~7節)

 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。 (箴言29章25節)

       

                    

 

創世記12章1~9節「アブラムを導かれる主」

◆創世記12章1~9節 1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地のすべてのやから(民族)は、あなたによって祝福される」。4アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。 5アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。 6アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。
 7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 8彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。 9アブラムはなお進んでネゲブに移った。

 主は一人の人を選び、呼び出します。それがアブラムです。のちに、名前をアブラハムと変わりますが、彼の子孫から、イスラエル民族が生れます。この民族からダビデが生れ、イエス様が生れます。つまり、一人の人から、一つの民族が現れ、救い主イエス様が登場するわけです。
 なぜ、主はアブラムを慣れ親しんだ生れ故郷のウルから全く知らないカナンの地に神様は向かわせたのでしょうか。その理由がヨシュア記24章2~3節で読み取ることができます。

ヨシュア記24章2~3節】
  2そしてヨシュアはすべての民に言った、「イスラエルの神、主は、こう仰せられる、『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、 3わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、川の向こうから連れ出して、カナンの全地を導き通り、その子孫を増した。」

 生れ故郷のウルは偶像崇拝していた場所でした。そこから抜け出す(救う)ために神様は介入し、アブラムを用い、カナンという約束の地を示されたのです。

【創世記12章2、3、7節】
  2わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。・・・3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地のすべてのやから(民族)は、あなたによって祝福される」。・・・7「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」  

 上記の2、3、7節はアブラハム契約といわれます。イスラエルは世界の祝福の基となるというのはここからきています。言い換えれば、イスラエルは霊的に大きな任務が任されています。それはイスラエルの歴史から見てもわかるのではないでしょうか。また、ユダヤ人でない異邦人の私達にもイスラエルに対する態度の取り方しだいで神様からの祝福は影響します。

 さて、アブラムは財産を携え、妻と親族を連れて、全く見たことも、聞いたことも、知らないカナンの地に行きました。神様の約束に全き信頼を置いたのです。この約束を覚え、その印として主のために祭壇を築き、礼拝したわけです。

 私達の人生の中で慣れ親しんだ環境から離れなくてはならない局面があるかもしれません。そのとき、神様からの召しと計画をどこまで信頼しきうるか、要になってくるかと思います。神様からの召しとは神様から導きであり、聖霊様の働きでしょう。
  神の賜物と召しとは、変えられることがない。 (ローマ人への手紙11章29節

旧約聖書 #創世記

 

 

 

愛は多くの罪を覆う

◆ペテロの手紙第一4章8~10節◆

8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いさない。愛は多くの罪をおおうからです。

9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合い なさい。

10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者とし

   て, その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

人は誰しも、良い点と欠点(何らかの形で欠けているもの)が必ず、あるものです。
神様の目から見て、パーフェクトな人間は、はじめに造られたアダムとエバでした。
 しかし、それは短い一時期のことでした。エデンの園で、彼らは神様から食べてはならないと言われた善悪の知識から食べてしまいました。そこにに罪が入り、神のイメージに造られた人間アダムとエバは、神の作品が崩れてしまいました。修復が必要になりました。すべての人間の諸問題の根源はここからはじまりました。

 アダムとエバは互いに責任を転嫁するようになり、二人の人間関係は歪んだのです。その結果、神様との関係は破綻し、さらに私達の人間関係に不健全なところが生じるようになりました。現在の状況もそのことが垣間見るのではないでしょうか。

 しかし、幸いなことに二千年前に主イエス・キリストが私達のところに来てくださいました。私達のためにあの十字架の道を歩んでくださいました。その結果、神様との関係は回復されました。それは私達の救いのためでした。

 十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからないのです。」と叫ばれ、死んで行かれました。主イエスの十字架から流された血潮は私達の人類の罪をすべて、覆ってくださったのです。それは、私達の罪や恥がまるで、なかったかのように地獄という獄の囚人服の上からキリストの愛の衣を着せてくださいました。

 主イエスの十字架での出来事は、私達に対する神様からの愛のメッセージです。

 確かに私達は信仰により救いに与りました(恩恵をうけました)が、依然として、私達の心の内側に罪の性質がまだ、残っています。聖霊様の助けで、キリストの愛の上の土台に立って生きるとき、私達は日々、新たにされていきます。(Ⅱコリント4:16)

 

 
 1.愛は多くの罪を覆う

 主イエスは公生涯で二つの戒めを残されました。

 ①神を愛せよ       

 ②自分自身のように隣人を愛せよ

 愛されることは赦されること、愛するとは、赦すことです。

 

 私達の今、歩んでいる時代とこの社会状況は本当に病んでいます。難しい時代です。
この手紙をペテロが書いた、当時の時代も同じように秩序が崩れ、混乱した状況にありました。その難しい時代をを生きてゆく秘訣は今も昔も変わりありません。この二つの戒めにほかなりません。

 具体的にいえば、

 ①自分が相手から受けた数々の罪と過ちを赦す
 ②自分が相手に与えた数々の罪と過ちを赦してもらう

 以上です。罪と過ちは魂(思考と感情)と体の健康に影響します。

 

 また、聖書はこのようにも語っています。(Ⅰヨハネの手紙4:18)

 愛には恐れがありません。

 全き愛は恐れをしめだしまします。

 

 先の二年前のパンデミックの出現で私達は翻弄され、肉体的、精神的にも苦しみました。私達の社会の中にある一種の恐れを植え付けました。その結果、人々の愛が冷えてしまったかのように見えました。

 
2.賜物を生かして互いに仕えよ 

 上記のことを打開するには、本文の10節に書き記されているように私達が神様から与えられている賜物と才能を生かすことなのです。

 賜物と才能について私は二つに分けられると思います。

 ①生まれ持って、初めから備えられている賜物・才能

 ②訓練や人生の試練を通して生れてくる賜物と才能です。この中には人から教えられ、学びによって習得された賜物と才能もあります。

 賜物と才能は生かして(使って)こそ、はじめて価値が出てくるものです。それは私達がお互いに助け合う、仕え合うために賜物と才能を生かすのです。それが神様の御旨です。

 

 でも、「私には、賜物と才能が無くて人には役に立たない存在だ」と思ってがおられる方がおられるかもしれません。しかし、キリストに信頼するとき、あなたには揺るぐことない信仰という賜物を持ちます。目に見えないこの霊的賜物は目に見える賜物と才能よりも大きいのです。人のために祈ること、これより大きなものはありません。時に祈りは病む人を回復させます。

 

 この二点について覚えていただければ、幸いです。シャローム

 (動画メッセージをもとに一部、修正した文書となっています。)

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