御言葉にとどまるなら・・・

聖書の御言葉の日記です。

愛は多くの罪を覆う

◆ペテロの手紙第一4章8~10節◆

8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いさない。愛は多くの罪をおおうからです。

9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合い なさい。

10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者とし

   て, その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

人は誰しも、良い点と欠点(何らかの形で欠けているもの)が必ず、あるものです。
神様の目から見て、パーフェクトな人間は、はじめに造られたアダムとエバでした。
 しかし、それは短い一時期のことでした。エデンの園で、彼らは神様から食べてはならないと言われた善悪の知識から食べてしまいました。そこにに罪が入り、神のイメージに造られた人間アダムとエバは、神の作品が崩れてしまいました。修復が必要になりました。すべての人間の諸問題の根源はここからはじまりました。

 アダムとエバは互いに責任を転嫁するようになり、二人の人間関係は歪んだのです。その結果、神様との関係は破綻し、さらに私達の人間関係に不健全なところが生じるようになりました。現在の状況もそのことが垣間見るのではないでしょうか。

 しかし、幸いなことに二千年前に主イエス・キリストが私達のところに来てくださいました。私達のためにあの十字架の道を歩んでくださいました。その結果、神様との関係は回復されました。それは私達の救いのためでした。

 十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからないのです。」と叫ばれ、死んで行かれました。主イエスの十字架から流された血潮は私達の人類の罪をすべて、覆ってくださったのです。それは、私達の罪や恥がまるで、なかったかのように地獄という獄の囚人服の上からキリストの愛の衣を着せてくださいました。

 主イエスの十字架での出来事は、私達に対する神様からの愛のメッセージです。

 確かに私達は信仰により救いに与りました(恩恵をうけました)が、依然として、私達の心の内側に罪の性質がまだ、残っています。聖霊様の助けで、キリストの愛の上の土台に立って生きるとき、私達は日々、新たにされていきます。(Ⅱコリント4:16)

 

 
 1.愛は多くの罪を覆う

 主イエスは公生涯で二つの戒めを残されました。

 ①神を愛せよ       

 ②自分自身のように隣人を愛せよ

 愛されることは赦されること、愛するとは、赦すことです。

 

 私達の今、歩んでいる時代とこの社会状況は本当に病んでいます。難しい時代です。
この手紙をペテロが書いた、当時の時代も同じように秩序が崩れ、混乱した状況にありました。その難しい時代をを生きてゆく秘訣は今も昔も変わりありません。この二つの戒めにほかなりません。

 具体的にいえば、

 ①自分が相手から受けた数々の罪と過ちを赦す
 ②自分が相手に与えた数々の罪と過ちを赦してもらう

 以上です。罪と過ちは魂(思考と感情)と体の健康に影響します。

 

 また、聖書はこのようにも語っています。(Ⅰヨハネの手紙4:18)

 愛には恐れがありません。

 全き愛は恐れをしめだしまします。

 

 先の二年前のパンデミックの出現で私達は翻弄され、肉体的、精神的にも苦しみました。私達の社会の中にある一種の恐れを植え付けました。その結果、人々の愛が冷えてしまったかのように見えました。

 
2.賜物を生かして互いに仕えよ 

 上記のことを打開するには、本文の10節に書き記されているように私達が神様から与えられている賜物と才能を生かすことなのです。

 賜物と才能について私は二つに分けられると思います。

 ①生まれ持って、初めから備えられている賜物・才能

 ②訓練や人生の試練を通して生れてくる賜物と才能です。この中には人から教えられ、学びによって習得された賜物と才能もあります。

 賜物と才能は生かして(使って)こそ、はじめて価値が出てくるものです。それは私達がお互いに助け合う、仕え合うために賜物と才能を生かすのです。それが神様の御旨です。

 

 でも、「私には、賜物と才能が無くて人には役に立たない存在だ」と思ってがおられる方がおられるかもしれません。しかし、キリストに信頼するとき、あなたには揺るぐことない信仰という賜物を持ちます。目に見えないこの霊的賜物は目に見える賜物と才能よりも大きいのです。人のために祈ること、これより大きなものはありません。時に祈りは病む人を回復させます。

 

 この二点について覚えていただければ、幸いです。シャローム

 (動画メッセージをもとに一部、修正した文書となっています。)

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